そこに愛はあるんか? ―ダメ出しの効き目― 

記者時代、芸能人の取材で「ダメ出しの効き目」を記事にしたことがある。

ダメ出しは客観的な目である。自身の癖や弱点は自分にはわからない。問題点がわからなければ改善も前進もない。ゆえに俳優にとって最大の敵は自己満足であり、ダメ出しがなければ成長が止まる。ダメ出しは演技の幅を広げ、人として深みを増し、さらなる挑戦への原動力にもなる。───みたいな内容だった。

だが、ダメ出しは真剣勝負であればあるほどに、指摘も要求も厳しくなっていく。商業演劇の世界では、その要求も半端ない。女優の渡辺えりさん(当時は渡辺えり子)が主宰する劇団の稽古を拝見したとき、その少し前まで、にこやかな笑顔で取材に応じていた渡辺さんの目付きが豹変したのに驚いたことがあった。

長机の真ん中に陣取って、目の前で稽古をする俳優に、どんな気持ちでやっているのかと問い質していた。同じ台詞せりふでも、俳優が演じる役をどこまで理解しているかによって表現がまるで違ってくる。映画にせよドラマにせよ、フィクションを事実のごとく見せていく世界である。上っ面だけ取り繕った表現では、視聴者にも見破られる。まして舞台では、演じる役者の鼓動が生で伝わる。一寸たりとも手は抜けない。

渡辺さんのダメ出しは真剣勝負で、役者の背後にはチケットを買って劇場に足を運ぶ観客の顔がある。渡辺さんは客が納得する舞台を作り上げるために、命を懸けているように思えた。

そういえば私もよく上司や先輩、時にはベテランのカメラマンからもダメ出しを喰らった。今でも印象に残っているのは、旅企画で連泊取材をしたとき、食事中にいきなり編集者とカメラマンから取材のやり方を否定された。

話が長い、ポイントが絞れていない、ヘラヘラし過ぎだ、未熟者、いったいどんな人生を歩んできたんだと、次第に生き方まで否定され、かなりムカついた。だが、私は反論できなかった。なぜなら、言われたことに、みな思い当たる節があったからだ。

もう30年以上も前の話だ。今ならパワーハラスメントで問題にすることもできるのだろうが、当時はまだパワハラの概念も存在していない。(ちなみに「パワーハラスメント」という言葉が生まれたのは2001年。和製英語である)腹が立ち過ぎて、悔しくて眠れなかった。

しかし、結局のところ鍛えられた。今にして思えば、私は取材も記事も自己満足の域を出ていなかった。記事を読む読者の顔も見えていなければ、取材対象者の思いも汲み取っていない。要するに独りよがりでしかなかった。

酒の勢いを借りた自己中かつパワハラ的ダメ出しを肯定するつもりはないが、ダメ出しそのものは人を成長させる効果がある。私は、あのダメ出しを境に‟書くことの意味”を自問自答するようになった。

だがダメ出しをするには、必要な条件がある。一つは目的を共有していること。そしてもう一つは信頼関係の有無である。大地真央さんのテレビCMに、「そこに愛はあるんか?」と従業員の板前に向かって問い質すシーンがあるが、まさに愛情の有る無しがダメ出しの効果を左右する。

私は小論文講師という仕事柄、生徒や学校の先生方からも「文章上達のコツはありますか?」と、よく聞かれる。そんなときに答えるのが「ダメ出し」である。

受験小論文は見ず知らずの赤の他人が採点をする。従って自分が上手く書けたと思っても、他人に理解されなければ通用しない。だから、人の目を通す。赤の他人の目を通して、文章の癖や構成上の問題点や内容をチェックしてもらうことで改善点が見えてくる。

ダメ出しの条件は、もちろん褒めないこと。友人間ならば直感的に感じた問題点を指摘してあげること。深く考えれば、雑念から本音が言えなくなってしまう。それでは意味がない。

これがプロの添削になれば、論理的構成や表現、内容を踏まえて合格ラインに辿りつけるような指摘と修正案を提示していく。だが、合格ラインまでの道程みちのりは長い。講師にも生徒にも覚悟が必要だ。

裏を返せば、そのくらい日本の子どもたちは書くことに慣れていない。ゆえにダメ出しも手厳しくならざるを得ない。だからこそ、そこに愛がなければ真剣勝負のダメ出しも空回りをして生徒には伝わらない。

書くのはAIではなく、生身の人間である。しかも相手はたかだか17、8歳で、見た目以上に打たれ弱い。ダメ出しが焦りや不安につながれば逆効果になる。ダメ出しは、受ける側にとって成長のための具体的なアドバイスでなければならない。その背景に生徒を思う心がなければ、ただのパワハラになってしまう。根っこに愛がなければ、生徒は育たないのである。

 

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