生徒の涙……これってパワハラ?

先だって、生徒を泣かせてしまった。もちろん意地悪などして困らせたわけではない。ただ正直に生徒の現状を説明しただけだ。

一つ「まず課題文を理解できていない感じ。要するに読解不足。筆者が何を言わんとしているか、理解しているとは言い難い……かな」

二つ「これはテスト問題なんだから、書くべきは解答。イントロ的な文章は不要。それとね、表現がちょっと幼いのね。だから考え方まで幼稚っぽく感じるんだねえ」

三つ「根拠が存在していない。自分の言い分を根拠によって裏付けなくっちゃ、ただの作文。ゆえに小論文として成立しないわけで、説得力ゼロ!ってとこかな」

等々、いろいろ言った。まずは基礎的な問題点ばかり。とはいっても、本質は衝いた。でなければ指導の意味がない。

が、ふと見ると、うつむいた生徒の目から涙がポロポロと零れている。え、え、えっ~! そんな強い言い方してないよ。指摘は手加減なしだが、話し方は至極しごく、至極柔らかに心がけた、つもりなのに。

……なのに、泣いている。それも、声を上げずに下を向き縷々るるとして。ヤバいよ、ヤバいよ、出川哲朗だ。

最近、個人授業の相手は男子生徒ばかりだったから、ついつい言葉がきつかったのかな。でも、ここで本当のことを言わないと問題点も解決できず、合格も遠のいてしまう。なにせ受験は待ってくれないし、試験日までの授業数も限られている。だけど泣かれちゃったら何も言えないじゃん。

「えっと、大丈夫、かな?」

私は恐る恐る声を掛けた。すると生徒はかすかにコクリと頷いて、消え入るような声で「はい」と返事をする。

全然、大丈夫じゃあない!

「ごめんね、問題点をあやふやにしてしまうと、本番で困るのは受験生だから、だから、はっきりとね、誤魔化さずに言うんだけど……」

私もしどろもどろだ。言いながら、自分を正当化しているみたいで罪悪感が芽生えてくる。これまたヤバいではないか。こういうときは、しばし待つ。生徒も自分も落ち着かなくちゃ。

と、生徒がぼそりと言った。

「先生が悪いんじゃなくて、自分が情けなくて……」

「そ、そうなんだ」と相槌あいづちを打ちながら、私は複雑な気持ちになった。

受験塾の講師は生徒を合格させてこそ、なんぼである。だからといって何を言ってもやってもいいわけじゃない。

が、しかしである。何となくわかる程度の中途半端な理解では問題解決には至らないのだ。あめむちと言うけれど、褒めてばかりでは受験に太刀打ちできる力は養われず、鞭ばかりの厳しい指導では生徒は委縮して伸び悩む。教育のさじ加減の難しさだ。

ただ願うは一つ。授業で流した涙が、ゴールで嬉し涙に変わること。それまでは、ちょい・・・飴、ちょい・・・鞭、ちょい・・・反省。自己弁護ではないが、終わりよければ途中の叱咤も名指導に変わるはず。

なんてね、だから日本は指導者側に都合のいいシゴキとか愛のムチとかなくならないんだ。教える側が‟ちょい”のつもりでも、教わる側には‟超絶”怖い鞭かもしれないのに。

考えてみたら、この業界に入って15年近く経つ。だがいまだ、生徒指導は試行錯誤している。問題点を指摘すると、気丈に受け入れる生徒もいれば、泣く子、不貞腐れる子、言い訳に終始する子と実に様々だ。泣かれると困るが、反抗的態度に出られると腹が立つ。だが顔には出さない。忍耐、忍耐、また忍耐。

記者時代、取材中に当時売れ始めたグループのボーカリストを怒らせてしまったことがある。そのとき先輩に言われたのは、相手の反応は自らの写し鏡だと。

先輩は「傲慢ごうまんだったんじゃない?」と、冷ややかに言った。

先生と呼ばれる立場は、実に微妙だ。今やパワハラ的行為は訴訟問題にまで発展するから、学校の先生には訴訟向けの保険があるという。だが「先生」と呼ばれているうちに、指導者然とした気持ちになる。これが曲者くせものだ。指導的立場であろうと、人として成熟したわけではないのだ。

実るほどこうべを垂るる稲穂かな

私は自分の立場や思いを生徒に押し付けていなかったか? 生徒の気持ちを汲んでいたのだろうか?

生徒の涙は、私自身への戒め。もしかしたら近い将来、AIの方がもっとうまくコミュニケーションが取れるようになっているのかも。でもな、迷いや自惚うぬぼれを反省しながら心を磨く人間の深みを、AIは真似できまい。ゆえに私は人間らしく迷って悩んで、生徒を写し鏡としながら成長していくとしよう。

 

 

 

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