劣等感上等!

癌を患った母親の介護をきっかけに、私はマスコミから退いた。その後、小論文の添削講師となり、教壇に立つようになって10年ちょい。今でこそ目的観や信念は定まったが、講師になりたての頃は地に足がついていなかった。

文章には自信があったものだから、当初は、まあ何とかなると思っていた。当然、小論文講師としては大した経験もなく、指導は見様見真似で、生徒の前ではかなり無理をして‟できる先生”を装った。が、そのひずみは大きかった。

そもそも受験小論文のイロハがわかっていないのだ。本来ならAnswer Firstをテンプレートとすべき解答も、個性重視を名目に生徒任せで自由に書かせ、重箱の隅を突くような文章表現にこだわり、今にして思えば実力の伴わないヘタレ講師だった。何とかやってこれたのは、生徒が従順だったお陰。それと記者時代の筆力で文章が苦手な生徒を捻じ伏せることができたからだ。

だが、講師間には通用しなかった。当然だ。キャリアのある先生方の受験ノウハウには太刀打ちできなかったし、情報量も雲泥の差だった。

そこで私は密かに猛特訓をした。小論文の解説本を買い込み、さらに過去問を解いて手順と構成と表現方法をにわか仕込みした。例えるならば、医師になったばかりのレジデントのような立場だろうか。文章は書けても指導は半人前だ。私は‟臨床”に弱かった。そこで必死に独学しては、教室で講義をしながら経験を積み上げた。無論、試行錯誤の連続だった。

それでも生徒は素直に目の前の課題と向き合い、正直に頑張って合格を勝ち取っていった。私の教え方が良かったのではなく、生徒のがむしゃらな努力の結果だ。

よし、行けるぞ!と手応えを感じ始めたのは、講師になって4年目くらいだった。思い通りの結果が出るとは限らないが、合格をつかむコツが見えてきた。ようやく講師として、自分と仕事に自信と誇りを持てるようになった。

実はそれまで、私は劣等感の塊だった。中堅どころの予備校に移ったとき、一緒に採用された同僚は東大卒で、職場には早慶上智の御三家がうじゃうじゃいた。予備校業界は教員免許の有無は問われないが、高学歴な業界だけに出身大学がモノをいう。

そんなものは個人の偏見だと言うことなかれ。総合大学の大した特色もない学部卒で、講師経験も貧弱な私の立場は実に微妙だった。

劣等感は時に必要以上に自分を委縮させ、焼き餅となったり、見栄や虚勢に取って代わり、時と状況によって変容する。私は自分で自分に疲れ果てた。劣等感はひねた感情である。

私のストレス解消法はパートナーのヒデッチに本心をぶちまけて、ターボ全開のエンジンを一気に冷やして自分を取り戻す。もちろん劣等感の塊となっている自分を、どんな言葉で正当化しても状況が好転するわけではない。そんなことは百も承知だ。けれど人間だもの、腹に溜まったドス黒い塊で、結局、自分で自分を持て余しやりきれなくなったりもする。

「有名大学を出ているからって、人間的に優れてるわけじゃないのよね。頭がいいだけに、言っちゃ何だけど、傲慢というか、謙虚さは皆無ね。塾の使命は合格を出すことだけど、そもそも教育の最終目標は頭でっかちじゃなくて、知恵とか人間としての成長でしょ。そこんところを見失っちゃあ、おしまいよね」

私の発言は所謂いわゆる、ただのイチャモンである。もちろん夫のヒデッチは、負け惜しみとわかっているから右から左へと聞き流す。私は自分の力量を棚に上げた。

と、側で話を聴いていた末の娘が口を挟んだ。

「へえぇ、先生やってても劣等感て、あるんだ。なんか、びみょうに安心するかも・・・」

「びみょうに安心」て、何じゃいそれは。第一、私は劣等感の「れ」の字も口に出してはいない。

するとヒデッチが、待ってましたとばかりに付け足した。

「優秀な先生ばかりじゃ、生徒だってついていくのが大変だよ。お前みたいに‟できない先生”が必死に頑張る姿に、生徒も理解しようと努力するんじゃないの? 相乗効果だよ。劣等感を理解できる先生って、なかなかいないからね」

うわっ、はっきり言うな。劣等感上等!ってか。

だが、反論の余地なしだ。それに、私は自分の見栄で精一杯だ。生徒の味方になんて、全然なれていない。

思わずうつむく私に、ヒデッチはニヤけながら追い打ちをかける。

「生徒のお陰で気づけて良かったじゃん。お前も、まだまだ伸びしろ有りってことだよ」

むむ、んなこと、言われなくてもわかってるわい!

以後、私の劣等感は右往左往しつつも自ら方向を変えて、時に己にげきを飛ばしながら、沽券こけんより生徒第一の気持ちにシフトしていった。もちろん、できない先生のままでいるわけにはいかないから、その後もひたすら指導の技も人間力も切磋琢磨し続けている。